出版社:新潮文庫 著者:吉村昭
発行:1978年4月
私は吉村昭氏の著書の大ファンの一人である。今回の書籍紹介に当り、氏のどの著書をご紹介しようかと迷ったが、旧日本海軍の名戦闘機をテーマにした「零式戦闘機」を取り上げることにした。それは、今ほど「日本人とは何か」が問われている時期は無いと思ったからだ。もしまだ読んでおられない方がいらっしゃれば、是非一度お読みいただきたいと思う。氏の著書は、綿密な取材に基づく正確な事実の描写と、誇張・脚色を排した淡々とした叙述にその特徴がある。
この「零式戦闘機」もそのような特徴を十二分に備えているが、冒頭の記述には、あっと言わせられた。「零式戦闘機」は当初M重工業名古屋航空機製作所で製造されたが、付近には飛行場がないため、48キロ離れた岐阜県の各務ヶ原飛行場まで、一台一台、胴体と翼に分解された状態で、機体を損壊しないように牛車でゆっくりと24時間かけて運ばれ、実戦に投入されたというのだ。我が国は、明治維新以降、急速に工業化を成し遂げたが、こういった形で近代戦を遂行せざるを得なかったことに悲哀を感ずる。
この「零式戦闘機」の製作作業は、欧州で戦雲が急速に立ちこめる中、盧溝橋事件が勃発した直後の昭和12年8月に、海軍が新艦上戦闘機にかかる計画要求書を提示した時に始まる。その中には、速度、上昇力、航続力、兵装のどれをとっても当時としては実現不可能と思われる内容が示されていた。兵装を充実すれば機の重量が増え、他の項目を犠牲にせざるを得ないからだ。M重工業の技師堀越二郎氏は、極度の精神的疲労から肺浸潤に侵されながらも、必死に機を軽量化するための設計を重ねるとともに(この作業を「肉落し」と称した)、軽量でしかも強度の優れた素材を探し回り、ついにS金属工業で実用段階に達していた「超々ジュラルミン」に行き当たる。こうして昭和14年3月には海軍の全ての要求を満たした試作1号機が完成、その後幾多の紆余曲折を経て翌昭和15年(紀元2600年)7月末に海軍に制式採用された。2600年の末尾のゼロを取って、「零式艦上戦闘機11型」と命名された。ゼロ戦の誕生である。
「零式戦闘機」は高性能を誇り、搭乗員の錬度の高さも相まって、太平洋戦争の緒戦では連合軍を圧倒、改良を加えられながら終戦までに約1万機が製造された。B29による本土空襲が激しさを増す戦争末期には地下工場、半地下工場が作られ、多くの中学生の手によって戦場に送り出されたという。
日本人は、このように旺盛な探究心、向上心を以って、努力に努力を重ね、不可能を可能にする力を持っている。氏の作品のどれを読んでも、そのことを痛感する。
氏は平成18年7月に逝去され、氏の新しい作品を望むことはかなわぬこととなった。我が国の大きな損失であり、痛恨の極みである。衷心より哀悼の意を捧げたい。
評者:福岡財務支局長 有働忠明
引用:表紙は新潮社サイトから引用