出版社:新潮社 著者:帚木蓬生
発行:2012年6月
筑後川中流浮羽町の南岸大石堰の取水口横に水神社があり、その境内には筑後川本川からの用水事業に身命を賭して取り組んだ5人の庄屋の顕彰碑がある。
この地域は、約350年前までは筑後川が目前に流れていながら、耕地の標高が高くこの豊かな水を利用することが叶わず、有馬藩の中でも最も貧しい地域のひとつであった。
このため、高田村庄屋山下助左衛門をはじめとする5人の庄屋は名を連ねて本川からの用水事業実施の嘆願書を藩に提出したが、藩としてはあまりにも大事業であり、失敗に帰すれば藩の威信にもかかわるため、あくまで慎重であった。
5庄屋は「もし失敗に帰すれば極刑をも辞さず。」との覚悟を示し、ようやく藩営工事として取り上げられることとなった。着工にあたって、藩は現場に5本の磔台を設置し「万一工事が失敗に帰すれば厳罰に処す。」との気概を示した。
「庄屋様を殺してはならない。」と人々は必死の取り組みを行い、1664年1月に工事を起こし3月中旬には完成にこぎつけ、同時に5本の磔台は人々の喜びでどよめく中で焼き捨てられた。
この事業のおかげで75町歩の水田が増え、その後、事業は拡張を繰り返し、1687年には筑後川を横断する大石堰も設置され、潅漑区域も1426町歩に増え、最終的には2227町歩となり、今なお地域に豊かな恵みをもたらしている。
これら5庄屋の偉功は、道徳の教材や地域の小学校の校歌となって語り継がれている。
「水神」はこれら5庄屋にかかわる史実をモチーフとして、元助という打樋(川から田に水をくむ作業)を主業とする農民と、元助の村の庄屋である山下助左衛門の2人の視点から描かれている。
用水事業にかかる農民の期待と不安、地域間の対立と調整、これらの葛藤を裁きながら藩への仲介役として活躍する郡奉行と庄屋の働きなどは、今日の社会と政治の混迷と重ね合わせるとき、公共事業の原点とは何かを考えさせるような構図として描写されている。
作者の帚木蓬生氏は福岡県小郡市の生まれ、5庄屋の偉功は氏の日常生活の中で無意識的に脳裏に焼き付いていたものであろう。また、全体を貫く軽妙な筑後(ちっご)弁は主役となっている農民の魂の叫びを見事に描写している。
評者:(財)筑後川水源地域対策基金 理事 今村瑞穂
引用:表紙は新潮社サイトから引用